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全サービス業共通 商売哲学編

PHILOSOPHY 

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【哲学編後半用 必修科目】商売繁盛と社員幸福の両立ために必須の「サービス二元論©」とは何か?

 
 
 
 

プロローグ

 
お客さまを粗末にしようと考え閉店倒産する店よりも、
お客さまが大事と分かっていて閉店倒産する店の方が圧倒的に多い!
 
この不思議な現象の原因に気がつかないから、一生懸命働いていても閉店倒産するのです。
 

もしも、あなたがこの原因に気づいたら、どうなると思いますか?
これに気づく講義が、商人道義塾の哲学編なのです。
 
これより後半の講義が始まります。非常に重要な内容が、改めて始まると覚悟してください。

 

 ※

 
それでは今回の講義の前に 、大事なお話から始めましょう。
 
実際に店舗で働いている方々に、「良いサービスや良い接客の目的は何のためですか?」と、尋ねます。
 
「お客さまを増やし、利益を上げること」という内容を答えるでしょう。
つまりは、ビジネス成功のために行うことだと、多くの方々が知っています。
 
確かに、この認識は間違いではありません。これは、高校生のアルバイトの人達でも知っている一般的な認識です。
 
ところが、現実には、厳しくも興味深い現象があるのです。
 
 

その1 良いサービスも良い接客も、利益を上げるためだけに行うと考える従業員の多い会社。
 
その2 良いサービスも良い接客も、すべてはビジネスのためと思って経営する社長がいる会社。
 
その3 良い接客方法は、ビジネスのためだけ。それ以上は求めないで良い。こうした考え方で人材教育をしている会社。

 
 
このような会社を観察すると、ことごとく成功せず、失敗しているのです。
 
最も酷い会社や店になると、良いサービスも、良い接客も何のためにするのか、目的すら考えません。
 
そのため、ただお客さまのためにと漠然と、実行しているのです。「良いサービスも良い接客も常識的に必要だから」と言わんばかりに、黙々と形だけ真似ているだけなのです。
 
 
その結果、お客さまの心に何も響かず、再来店しないお客さまが日に日に増える。そして悲しいことは、集客の悪さや、売上低迷の原因が分からないまま閉店倒産していくのです。
 
そこで問題となるのは、閉店倒産している会社や店の人達は、何に気づかず、つまずくのか。
これさえ知ってしまえば、閉店倒産しないで済むのではないか。そう思われませんか?
 
人生も、幸福の形は人それぞれありますが、不幸は経済上の不幸、健康上の不幸、人間関係の不幸、この三つに集約できます。
商売も、成功の形は人それぞれあります。しかし、失敗は業種業態問わず、閉店倒産だと考えています。
 
人が幸せになるためには、幸せだけを追い求めるよりも、「先に不幸の源を作らない様にすることが、結果的に幸福に近づく秘訣ではないか」という考え方があります。
 
商売も誰かの成功例を見本にするより、失敗例を学び、同じ過ちを犯さない。これが、結果的に成功への近道になると考える。私がノウハウを分ける時は、この考え方を基本にしています。
 
そして、何事も真理を得るためには、肉眼観察だけで終わらせず、見えざる「本質」をいかに正確に掴むか。この一点に、集中するようにしています。
 
眼前の現象を凝視しても本質は目に見えません。しかしながら、目に見えないからと諦めては、いつになっても本質は見えない。本質が見えなければ、到底、真理にはたどり着けない。
 
だからこそ、何事にも眼前の現象だけを見るのではなく、目に見えない本質を見ようとする心眼を有しなければ、結局のところ、何も見えていないのと同じになる。そう思われませんか?
 
私が、このような考えになった出来事が昔ありました。
私は若い時に、ある面白い発見をしました。
 
私が十代の頃、金子健二先生主催で、東京芸大出身のアーチスト達が集うアトリエに通っていた時期の頃です。

その頃、ダビンチミケランジェロラファエロカラヴァッジオルーベンスゴヤベラスケスアングルセザンヌルノワールマネモネシャガールゴッホゴーギャンピカソブラックミロカンディンスキードガスーラクリムトミュシャカシニョールモディリアーニダリ平山郁夫東山魁夷、数え切れないほど多くの画家達の絵を実物や画集で頻繁に見ていました。
(順不同、敬称略。各画家に関しては フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』ください】
 

面白い発見とは、絵が上手いイコール感動する絵ではないという発見です。即ちデッサン力があるからといって、人を感動させることができるかと言えば、そうではないという事実です。
確かにミケランジェロや、ルーベンスの絵などは、絵に詳しくない人が見ても上手だと思うかも知れません。
 
しかし、セザンヌや、ピカソ、シャガール、ゴッホ、ミロ、カンディンスキー、モディリアーニ等の絵を見て上手い絵と思うでしょうか。これらの作家の絵を見て、子供が描いた絵のようだと言う人もいるでしょう。
ポイントは、一見すると上手いとは感じない絵から、感動を得るということです。
 
この感動は、何から来るのか。私は上手い絵を描くことより、この因果について深く興味を持ちました。そこで、作品そのものだけでなく、作家の考え方や生き方に着目したのです。

現代でも、芸大や美大に入るような人達は、デッサン力はあります。
しかし、その多くは先に挙げた画家達のように高名を得るかと言えば、甘くはありません。
 
絵が上手くても、感動しない絵というものが、たくさん在るからです。
なぜ上手いのに感動しないのか。
 
上手いのに感動しない絵と、一見すると上手くないのに感動する絵、何が違うのか。
 
この因果を、私は十代の頃に発見したのです。
 
そして、この発見の御陰で、あらゆる業種で同じことが生じていると気づきました。これにより、成否を分けている共通点も分かってしまったのです。
 
何事も、成就するために必須の源があり。そして、その源から派生した結果に、人々が惹かれるという現象がある。これを、発見したのです。

芸術界に限らず、スポーツ界でも、音楽界でも、ビジネスや商売の世界でも、成就した人は、必ず同じ源を持っているのです。
 
その源とは、フィロソフィーです。日本語では、哲学となります。
 
あえて英語で言うのは、西洋かぶれしているわけではありません。
単語の意味する範囲が、日本語で表現するよりも、広いからです。

哲理という普遍的な概念から、個人的経験から得た人生哲学や人生観、そして処世観、これらをフィロソフィーは、一言で表すことができる。このため、あえて使っています。
 
 
では、私が発見した上手いのに感動しない絵がある理由を、結論からお話しましょう。
 
上手いのに感動しない絵は、フィロソフィーが深くないために、死生観が浅いのです。
そのため、モチーフを見る際、対象の本質を掴めない。だから、作品も単なるオブジェとしてだけで終わる。したがって、迫力も無ければ、覇気も弱い。その結果、人の心に響かないのです。
 
感動する作品を作る芸術家は、みな死生観が深い。換言すれば、フィロソフィーがあるのです。
その証拠に、ピカソやシャガールの絵を見て頂くと、2次元の絵の世界に、時間という概念が含まれている。絵の中に時間の流れがある。これも、画家個人のフィロソフィーの表れです。
 
さらに補足すれば、平山郁夫の絵は動の中に静があり、東山魁夷の絵には、静の中に動がある。一見静寂に見えて、ふつふつと生きる命に心が向いている。
それを東山魁夷の本物を見ると感じます。
 
お二人とも共通しているのは、戦争という痛ましい状況を経験しないと描けない絵だということです。人生経験が作品を左右する見本のような芸術です。
 
しかし、ピカソのゲルニカ同様に、良い絵の誕生に戦争が必要なら、もう見られなくても良いかという気にもなります。
 
これらに気づくと、デッサン力の強化より、すべき事が他にあると気づけるのです。
 
因みに、もし私が芸術学部の教授ならデッサンの試験などは一切しません。思考の深さを探る小論文だけで充分と考える。なぜなら、技術力は右脳を鍛える反復訓練を行うことで、時間が解決してくれるからです。
 
しかし、フィロソフィーの深みだけは、人生の長さに正比例しない。樋口一葉吉田松陰を見ても分かるように、人生の長さが、人の思考を深めるとは言えない。だからこそ、18歳までデッサンをしたことがない子でも、思考さえ深ければ、将来必ず良い作品が生まれる。そう見ています。(樋口一葉及び吉田松陰各氏に関しては、 フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)を参照ください)
 
 
ここで、芸術家の話をしたのは、現在、サービス業の採用現場でも同じことがあるからなのです。
 
サービス業の適性の本質を掴んでさえいれば、単なる真面目さや、協調性、学歴は二の次。一番こだわる必要性がある適性は、他にあるのです。
この他にあるという点を、あなたが本講義だけでなく、商人道義塾の講義から、サービス業の適性を発見してください。
 
いわゆる真面目に見える人だけ集めて売上が上がらない婦人服店がある一方で、東京渋谷にある店のように、髪型や化粧、服装は派手で、外見から真面目そうには見えない人が、洋服を売りまくる。
 
商売人には何が必須で、どこを観て採用をしないといけないのか。商人道義塾で、人間という生き物を深く知ろうとすれば、これらの理由も発見できるようになるでしょう。
 
 
それでは、さらに視野を広げると、一流と言われるスポーツマンや、ミュージシャン、アーティストにフィロソフィーがなく、考えの浅い人というのはいない。そう思われませんか。
 
考えの浅い人でもナンバーワンになっているスポーツマンもいるじゃないかと、おっしゃる方もいるかも知れません。確かにおられるかも知れませんが、そのような方々は、引退後の人生はどうでしょうか?
 
ここで私が言う一流のスポーツマンは、現役引退後も一流と言われる人達を言っています。
 
例えば、長嶋茂雄氏王貞治氏鈴木一朗氏、選ぶ理由は、野球の成績だけではありません。自分が活躍することで、誰がためになるという自覚を持って生きている。この感覚が引退後も物を言うのだと感じています。(長嶋茂雄氏、王貞治氏、鈴木一朗氏に関してはフリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)を参照ください)
 
この点では、恐らく大谷翔平選手も将来一流と呼ばれる人になると感じます。現役選手の名を出すことは、控えるべきと思っていました。しかしながら、コロナ禍で、米国ではアジア人に対してヘイトクライムがあると言われる中、彼の活躍は多くの人達の助けになる。有りがたい存在だと、つくづく思い。ここでお話しました。【link:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』】
 
話が逸れないよう一言だけ付け足すと、大谷翔平選手は運は天から降り注ぐものではなく、運は自ら創るものということを、あの若さで既に知っている。歴史上にしかいなかったような凄い人物を見られて、同世代の人達は幸せだと思います。
 
 
他には、今年(2021年)亡くなられた古賀稔彦氏
【link:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』】
 
小よく大を制すという美しさを何度も見せて頂いたこと。両手を広げ、畳中央に出て行く古賀稔彦氏の姿を見て、殺気と覇気は違うということも気づかせてもらいました。
 
活人剣が如く、人を活かす柔道がある。相手を貶めるために勝つ柔道ではなく、互いに高見に立とうとする柔道。これからも、あの美しい姿を私は忘れないと思っています。
 
 

他者に優しいということが、真の強さを生む。
己の為にだけに生きる者は、心身の力が抜けず。

 
 
まさに柔よく剛を制するの源を、古賀稔彦氏からみたと感じています。
 
ミュージシャンでも同じと感じています。
一時、爆発的にヒットする曲を出せても、一流といわれる人達でないと長続きはしません。また、一流といわれる人達が作った楽曲は色あせることなく、人の心に残ります。私が若い頃、現場で接客している時、このことを気づかせてくれたミュージシャンがいました。
 
プライバシーに関わる事になるため、名は控えます。ステージ上の姿も何度となく拝見し格好いいです。しかし、プライベートの態度は、ステージより遥かに格好いいと感じ、感銘しながら拝見したことを、今も鮮明に覚えています。
 
 
ビジネスマンでもフィロソフィーが成就の源であるということは、同じとみています。
 
三井高利翁渋沢栄一翁はじめ、和田カツ刀自松下幸之助翁井深大翁盛田昭夫翁本田宗一郎翁土光敏夫翁鈴木清一翁小倉昌男翁小嶋千鶴子刀自伊藤雅俊翁岡田卓也翁鈴木修翁稲盛和夫翁、他にも大勢おられます。
 
名前を挙げればきりが無いほど、フィロソフィーが、ビジネスにいかに大事か。これを教える見本が、日本国内だけでも大勢おられます。
 
海外でも同様です。アンドリュー・カーネギー氏サム・ウォルトン氏ハーブ・ケレハー氏アニータ・ロディック氏リチャード・ブランソン氏ジム・ロジャーズ氏、その他にも大勢おられます。
(各氏に関しては、フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)を参照ください)
 
フィロソフィーが、ビジネスにいかに大事か。その証拠となる御一人の例を話しましょう。
 
昨今、合理的経営という言葉を優先する人が増えました。確かに、一概に悪いとは言えませんが、合理的な経営判断だけでは、宅急便【※】は生まれないのです。※宅急便【出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』】
 
本当に世のため人のためになることをしようと思えば、能率を重んじる合理性だけでは駄目なことがある。これを決めるのも、フィロソフィーなのです。
 
小倉昌男翁の「サービスが先、利益は後」というフィロソフィーがなければ、宅急便という便利なサービスを日本人は得られなかった。売り手の能率や、合理性だけでビジネスを考えれば、時間指定配送など絶対しません。ましてや、配達中のドライバーに直接電話ができるなど、絶対にあり得ないサービスです。
フィロソフィーが高いということが、社会のためになるという証しです。
 
さらに補足すれば、ヤマト運輸は、宅急便を始める際、専用の配送車を設計しました。この気概を是非、大手の小売業者には真似て欲しいと常々願っています。ベンダー設計で納品されたロボットやレジを、フィロソフィーなく使っている場合では、もはやない時代です。いかに優れた技術や機器でも、フィロソフィーのない利用方法は、結局、お客さまのためにはならない。これが、事実です。
 
 
そして、小倉昌男翁のフィロソフィーのレベルが高いことは、東京銀座にあるスワンカフェに伺えば、簡単に分かります。人間の尊厳の大事な部分が形になって、今尚残っています。(詳しくはこちらへ>>>)
 
障がい者を雇用し、生きる場所を作ったから立派なのではありません。そんな表面的な解釈では、小倉昌男翁が可哀想になります。
 
人間の存在価値や尊厳の領域では、障がいの有無は、まったく関係無い。人として生まれた尊厳を活かせる場を創ろうとする志を、理想だけにせず、形にしたことが立派なのです。
 
 
せっかく商人道義塾哲学編をお受けになっているのですから、私の言葉で補足しましょう。
 
スワンカフェで働いている人達の中には、星が付くホテルで働いているホテルマンでもできないことを、無意識に実行しています。それは、接客時の呼吸の仕方が正しいのです。
 
恐らく、呼吸の仕方と言ったところで、今の時代は名門ホテルと言われる施設で働いている人達でも、私が何を言っているか分からないでしょう。そのぐらい難易度が高いことを、彼らは行っているのです。
 
では、なぜスワンカフェの人の中に習わずできる人がいるのか。
 
彼らを肉眼だけで人を見る自我領域の人達には、障がい者に見えるかも知れません。
しかし、私のように人を真我の領域でも見ようとすると障がい者とは、軽々に言えない部分に気づく。
 
障がいは、確かに不自由かも知れません。しかし、不自由だから存在意義が低いということではない。健常者ができないことを、いとも簡単にできる部分を彼らは有しているからです。これは、紛れもない事実です。
 
 

人間の優劣は本来、肉体の状況に宿るものでは無い。

 

それを形で証明した小倉昌男翁を、私は天晴れな御仁と存じ、敬愛すべき経営者の一人に挙げています。
 
 
 
 
 
 

フィロソフィーがない人の共通点

 
 
 
では逆の見方として、フィロソフィーがない人の共通点はあるのでしょうか?
私は、経験的にあると思っております。既に、発見もしています。
 
例えば、フィロソフィーのない人は、面白い共通点として、目的と手段を見誤ることが多い。
 
あなたの周りでもおられませんか。争いにならないよう、口には出さず、心の中だけで感じてみてください。
 
では、目的と手段を見誤るとは、どういうことでしょうか。
 
先ずは、先ほどの画家の例でお話しましょう。
 
芸大や美大に入学する人達も含め、絵描きになろうとする人は、先ず写実的に描く訓練をします。
これは、間違いではありません。木炭や鉛筆でデッサンを何万時間と描くこと、珍しいことではありません。
 
しかし、いかに上手にデッサンができても、デッサンは手段であって目的ではない。
手段のレベルでは、人を驚かすことはできても、人生に影響を与えるほど感動させることはできない。
 
芸術の目的は、上手く表現することではない。これに気づく瞬間、芸術の目的が生まれる。そう思われませんか?
 
では芸術の目的とは、何でしょうか。
私の言葉で表現しましょう。
 
人間には七転八倒の苦しみの中で、はじめて気づくものがあります。それは、己の人格は広大無辺の宇宙中に絶対無二だという事実です。これを悟り、己しかない宇宙観を、目に見える形にする行為。これが、芸術の目的となります。
 
そして、その生まれた形を、見る側が共鳴したときに高名を得る。したがって、見る側が共鳴しなければ、いかに優れた作品でも評価対象外となる。しかし、時の流れと共に、後世の人達の中から作品に共鳴する人が増え始める。そのため、死後有名になる作家が、今も後を絶たない。それが、芸術作品です。
 
 
目的と手段を見誤ることの怖さ。この理解を深めるために、身近にある現場の話を例にします。
 
フィロソフィーのない料理人は、美味しい料理を作ることに執着します。ところが、これでは商売は上手く行きません。
 
この話をすると驚く人が多くいます。「えっ、違うのですか?」と、聞き直す人がけっこうおられます。
  
 
 
 
 
 

料理人は、なぜ美味しい料理を作るだけでは駄目なのか?

 
 
 
確かに美味しい料理を作ることは必要です。不味い料理で上手く行くわけないと誰でも知っています。その上で、美味しいだけでは駄目と言える理由があるのです。
 
美味しいだけの料理なら、家庭の主婦(夫)でも作れます。
 
プロの料理人にとって必要なフィロソフィーは、自分の料理の目的が分かっているということです。
 
料理人にとって、美味しい料理は、手段です。目的は自分の料理を通じて、お客さまの幸福量を増やすことです。これが、お金を頂く料理を、お出しするということなのです。
したがって、プロの料理人にとっては、ただ美味しいだけの料理では駄目。お客さまに幸せな気分が残らない料理は、お金を頂くに値しないということです。これを知って実践している料理人だけが、一流と呼ばれています。
 
美味しい料理だけで、お客さまからお金を頂こうとする。この考えが甘いのです。その証拠に、美味しいだけの料理で、閉店する店は、実は多いのです。なぜなら、日本のように何でも食材が揃う国では、不味い料理を作る方が難しいからです。

現実は、美味しくても潰れる店がある。この現実を、商売をはじめる人は、けっして甘く見てはいけません。

美味しい料理だけでは駄目。自分が作る料理には、自分の生き方や考え方が載っている。この点に気づいた料理人だけが、繁盛店になります。
 
このため、私は試食より遥かに、大事にしていることがあるのです。目的が外されていなければ、軌道にのります。繁盛店になるかを判断する時、私は試食などしなくて済んでいます。
 
極端なことを言えば、開店前は不味くても、目的が分かっている人は、日々進化するからです。試行錯誤しながら、繁盛店になる店の方が多いのは、このためです。

手段と目的を間違えない。このような考え方が必要なケースは、他の業界でもあります。
 
例えば、医療現場です。
病気を治すことが医師の仕事だと思っている人は、名医にはなれません。
 
名医にとっては、病気を治すことは手段であって、目的ではない。名医は、これを知っているのです。
それを、私に見せてくれた人が、日野原重明先生です。
【link:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』】
 
 

名医は、病が治った後の患者の人生もみようとする。
凡医は、病のみを診て、人を観ず。
凡医の誘因は、名医を決めるのは素人。この現実を悟れないことにある。

 
 
重ねて、厳しい現実をお話しすると、患者の世話をすることが看護師の仕事だと思っている人が多い病院は、いつになっても評判が上がりません。
 
また、見逃せない重要な観点があります。医師をサポートするだけが、看護師の仕事ではない。看護師にしかできないことがあるのです。
 
看護師にしかできないことが、患者や、その家族の記憶に深く残る。そして、退院後にも残る。これが、病院の評判を上げる源の一つなのです。 
 
 
私の身近にも、幼少の頃、病気で苦しんでいる時に接してくれた看護師が忘れられない者がいました。
その後、自分も同じようになりたいと看護師になった人がいます。なぜ、一生忘れられない看護師がいるのか。
何が、そんなに強い記憶として残るのか。

「看護師にしかできないことがある」、この重要さ分かっているからこそ、日野原重明先生は看護師の育成だけでなく、看護師の存在を大事にしていたのです。
 
看護師を下に見ているような医師では駄目だと、日野原重明先生は、私に仰ったことが、この証明と存じております。
 

フィロソフィーのない看護師は、恐らく今私がここで言う「看護師にしかできないこと」に、一生気づかないでしょう。
凡医同様、「病をみて人を観ず」で終わるからです。
 
人を観ずとは、言葉を換えれば、「情に触れず」ということです。
患者に寄り添うとは、手厚く世話をすることだけでは無く、患者の情に触れるということです。
 
さらに理解を深めるために、再び業界をかえて見てみましょう。
フィロソフィーのない靴磨きの職人は、自分の仕事は、汚れた靴をきれいにすることだと思っています。
しかし、これでは、一流にはなれません。
 
靴をきれいにすることは手段であって、目的は、その先にある。これを知っている靴磨きの職人だけが、一流と呼ばれます。
 
靴墨で汚れた自分の手を見て惨めに思うか、誇りに思うかは、自分の心にあるフィロソフィーが決めるのです。
 
 
どの業界でも、一流と言われる人達には共通するものがある。
 それが、明確なフィロソフィーがあるということです。考えの浅い一流はいないと言って過言ではありません。
 
 
逆に、どの業界でも失敗する人達に共通する物があると言いました。それが、手段と目的を見誤る。見誤る原因、それは、フィロソフィーがないだけなのです。
 
フィロソフィーがないために、何が手段で、何が目的か。その答えを得ることができません。それにより、誤った努力で、一生を終えるのです。
 
商人道義塾哲学編の後半は、フィロソフィーのない人が陥る落とし穴に入らないためにあります。
いわば転ばぬ先の杖となる智恵が、これからのお話になります。
 
ただし人間は、頭で分かっただけでは、体は動かない。そこで、フィロソフィーというものが、どういうものかを、知識ではなく、感覚として理解する必要があります。
 
そして、自分のフィロソフィーを成功の源とするためには、フィロソフィーの質を高めて行く必要があります。
この目的の為に、商人道義塾哲学編の後半がある。そう思って頂いて構いません。
 
哲学編の後半をはじめるにあたり、より理解を深めて頂くために、先ず「サービス二元論」を知って頂く必要があります。これを、特別講義と致しました。
 
サービス業従事者にとってのフィロソフィーとは何か。これを明確に自覚するには、対比でみることが分かりやすいのです。それが、サービス二元論です。
 
 
それでは、講義をはじめます。
 
 
 
 

 


 

講義開始 

 
 

サービス二元論©

(さーびす にげんろん:弊社ENLIGHTSの造語です)
 
 
サービス二元論とは、言葉は難しそうですが、意味は簡単です。それに、意味さえ分かれば、サービス二元論という言葉を忘れても大丈夫です。覚えて頂きたいのは言葉ではなく、意味するものだからです。
 
 
サービス二元論とは、法人側から見たサービス行為と、私人側から見たサービス行為を分けているだけのことです。(私人とは、個人と同じことです)
 
本来、二元論とは、精神と物質、心と体という具合に、相反するものを認めて説明することです。
ただし、相反していても、分離はできず、二体が一体となして事を成します。
 
難しく聞こえますが、難しいことではありません。例えば、心と体を別々に考えることはできても、分けることができない。それを言っているだけのことです。安心してください。
 
サービス二元論も同じく、法人観点のサービスと、私人観点のサービスを分けて説明します。
しかし、心身を別々に捉えてみても、実際は切り離せないように、これとサービス二元論も同じです。サービス二元論も、いざ実施すると、法人私人それぞれの観点で行っても、別々に実施することはできません。サービス提供は、同時に行われます。
 
 
 
 
 
 

サービス二元論とは何か?

 
 
 
問題は、なぜ私がサービス二元論が必要だと思ったのか。
これを、あなたにも一緒に考えて頂きたいのです。
 
そして、あなたの周りの事象を、改めて監察し直して見てください。
法人観点のサービスと、私人の観点からみたサービスを、あえて分ける意味を、あなたも発見することができるでしょう。
 
発見して頂ければ、何が商売の成否を分けているのかも、同時に理解できるでしょう。
 
同じ新人研修を受講しても、世間から一流と呼ばれるように成長する社員と、そうでない社員は、何が違うのか。これらの原因や、分岐点も、同時に見つけやすくなります。
 
 
私は、入店間も無い見習いの料理人が皿洗いをしている後ろ姿だけで、将来行列のできる料理人になるか、瞬時に見分けがついています。
 
また、シャンプーしかさせてもらえない見習い美容師でも、将来自分の店が持てる人になるか。瞬時に見分けがついています。

高い確率で見分けがつくのは、理由があるのです。この理由こそ、当該者に「私人の観点からみたサービスの意識」が有るか、無いか、たったこれだけの違いなのです。この点を、観察しているだけで、見分けがつくのです。
 
私と同じ観察眼を、是非あなたも手に入れてください。そうすれば、仕事が楽になります。
 
 
 
 
 

サービス二元論の必要性に、なぜ気づいたか。

 
 
 
私が、サービス二元論を必要だと思ったのは、ある出来事がきっかけでした。
 
コンサルタントになって数年が経った2003年頃です。多店舗経営を行っている企業で接客指導に入りました。
 
一人のパートタイム職員の人から、「山口さんの言うとおりに実行すれば、店の売り上げが上がることは分かる。でも、その売り上げが私達の時給を増やすことに繋がるのですか。繋がらないのなら、労働の搾取ではないですか。私は、この研修をボイコットします」と、皆の前ではっきりとおっしゃったのです。
 
これには、私も困ったなと正直に思いました。
しかし、困ったというのは、ボイコットされるからではありません。
 
私が、研修で話す最も大事なことが、この人には通じないだろうと思ったからです。
 
確かに、このパートタイム職員の人がおっしゃったことは、ある部分では正論です。
しかし、サービスという言葉の意味を深く捉えた総論ではない。表面的には正しくても、本質的には違うのです。
 
その上で、私は、このパートタイム職員の人は立派だと思いました。
目に見えて反論せず、本心を隠したまま、私の言うことを無視すれば、会社からの評価は下がらない。
それにもかかわらず、あえて皆の前で反旗をひるがえすのですから、天晴れだと思います。
 
恐らく、他にも同じことを考えていた人がいたはずなのです。一人の勇気ある行動に、こちらも、どのように応えるべきか。真剣に考えました。
そして、考えてまとめたのが、サービス二元論なのです。
 
お客さまを歓待する行為には、商売繁盛になるためだけではない、重要な要素が含まれているのです。
 
ところが、商売で失敗する人達や、来院者が来ずに閉店倒産する病院の人達は、この点を知らないでいるのです。
 
 
では、法人側から見たサービス行為と、私人側から見たサービス行為を分けて観るとは、どういうことでしょうか。
 
本講義でサービス二元論の必要性に気付かないと、恐らくこの後から続く講義の本意は、何一つ掴めません。
 
この後からの講義は、簡単な言葉で表現しようとは思っていますが、内容はある部分においては高度な精神論が含まれます。
したがって、分かる人は子供でも分かる。しかし、分からない人は一生分からない世界の話になります。
 
 
例えば、「なぜ人は、他人のために身を粉にして働く必要があるのか」と、問われたとします。
その時、宗教的な表現を一切せず、その上で、明確な答えを言える人がいるでしょうか。
現代では、恐らく言える人の方が、少ないでしょう。
 
福島の什の掟てのように、人が生きる上で大事なものには、理屈で語れないものがあると知っていた人達は、最後は「ならぬことは、ならぬものです」と言わざるを得なかった。こうしたことは、今も日常生活には多いかも知れません。
 
 
例えば、「なぜ、人は人を大切にする必要があるのか」と問われて、宗教的な表現を一切せず、明確な答えを言えるでしょうか。これも、恐らく言える人の方が、少ないでしょう。
さらに、「なぜ、自分を嫌う人間でも、大切にする必要があるのか」と問われれば、さらに答えは、難しくなるのではないでしょうか。
 
しかし、理屈では語れないと諦めてしまうと、商人道義塾では講義になりません。
 
そのため、出来る限り感覚的なことを、分かりやすい言葉にしようと致しました。これを総称した言葉が、サービス二元論なのです。
 
 
 
それでは、あらためてサービス二元論の説明を致します。
 
サービス二元論とは、サービスや接客を、法人側から見たものと、私人(個人)側から見たものに分けて考えるということです。
 
その理由は、多くの人達が気づいていませんが、サービスや接客は、法人観点と、私人観点では、提供の仕方等々、姿形は同じでも、行う目的が違うのです。
そしてさらに、サービスや接客の成功で得るものが、法人と私人では違う。これが、既に分かっています。
 
そのため、あえて最初から分けて考えた方が、結果的に商売も成功が早いと考えているのです。
 
では、法人と私人で何が違うのか。ここで、整理してみましょう。
 
 
 
 
 

サービス二元論:法人観点のサービスとは何か?

 
 
 
法人側から見たサービスとは、常識的に全ての人が知っています。
生まれて初めてアルバイトに来た高校生でも即答できます。
 
例えば、「サービスとは、なぜ必要なのか」と尋ねて見てください。
「お客さまに奉仕して、商品を購入頂き、再びこのお店にお越し頂くために行うものです」表現は人それぞれでも、多くの人は、「売上を上げるため」、「集客を上げるため」と、これらを意味するような内容を答えるでしょう。
法人側から見たサービスを、ここで説明しなくても、どなたでも簡単に想像できると思います。
 
その上で、簡単に重要点を補足します。
 
法人観点のサービスには、ブランディングに関わる領域と、マーケティングに関わる領域があります。
 
ブランディングに関わる領域は、他店との差別化のためのサービスです。
マーケティングに関する領域は、集客性向上と、再来店の動機づけのために行うサービスです。
 
これらを、多額のコストをかけて実施するか、かけずに行うかを最終的に、どの会社も決めておられると思います。
 
法人観点のサービスのポイントは、闇雲にサービスすることではなく、ブランディング、マーケティングに効果的かを、絶えず念頭において企画し、実施することです。
 
したがって、他店と差別化できていないサービスは、実施してもお客さまの記憶には残り難い。普段、お客さまが思い出す時、三つ以内に入らない店は競争力がないと同じ。
また、集客向上や再来店の動機づけにならないサービスは、コストの無駄遣いに成り得る。
この二つを意識しないと、予算の無駄になります。
 
 
 
 
 
 

サービス二元論:私人観点のサービスとは何か?

 
 
 
では次の例は、いかがでしょうか。
次の例が、私人の観点からみたサービスの話になります。
 
私人の観点からみたサービスの必要性を、是非あなたにも掴んで頂きたい。そのため、結論を最初に言わず話を進めて参ります。本質を結論づけ語るより、曖昧に話します。
曖昧だからこそ、あなたが本質を掴んだ瞬間、一生の宝になる。そう確信しています。
 
分からないときは、講義内容を繰り返し読み、その都度、該当する現場に足を運び、目にする現象や感じる空気から、あなたなりの答えを導き出して見てください。これも、大事な訓練です。
 
それでは、はじめましょう。
 
「お客さまは、大事ですか?」と、あなたの知っているサービス業従事者の方々に尋ねて見てください。
アルバイト各位から正社員各位まで、即答で「大事です」と、おっしゃるはずです。
 
問題は、なぜお客さまは大事だと分かっているのに、来店者に感謝する態度が出ないのか。
この理由を、正確に答えられるかなのです。
 
実際、あなたも、次の店員をご覧になったことはないでしょうか?
 
 

店員1
「お客さまが大事」と分かっているにもかかわらず、サービスカウンターの前でキョロキョロしているお客さまに声をかけないでいる店員。

 
 

店員2
レジカウンター内にへばり付いて、陳列棚が乱雑でも見て見ぬふり。品定めに苦慮している人が見えても、接客しないで良いと思ってレジカウンターから動かない店員。

 
 

店員3
「お客さまが大事」と分かっているにもかかわらず、卓上ベルが鳴るまで、お客さまのところにオーダーを取りに行かない店員。

 
 

店員4
店員3と同じように呼び鈴がなるまで、いかにレジに、お客さまの行列ができていても応援に入らない店員。

 
 
 
あなたは、「お客さまは大事です」と即答できる人達が、お客さま大事と思う行動をしない。
なぜ、こうした現象が起きるのか。この理由を知っていますか?
 
実は、GMSや百貨店、大手チェーン店の多くが、この現象を20年近く放置しているのです。
そのため手を替え、品を替えても売上が回復しない。そのさなかに、コロナ禍です。本当に大変な状況になりました。
 
長い間の放置は、経営者や、管理職、指導者が悪いとは、一概には言えません。
なぜなら、世の中全体が、対人関係の本質を掴みに行く力が弱くなっている。だから、根が深い問題になっているのです。
 
 
例えば、私が子供の頃は、見ず知らずの人から御菓子をもらったり、遊んでもらったりすることが、よくありました。そして、人に親切にしてもらったら、ありがとうと、礼を言いなさいと教えられた。
 
しかし、今の子供たちの状況は、いかがでしょうか。
教師は見ず知らずの人に声をかけられても、ついて行っては駄目と、子供達に教えます。
 
誘拐犯は確かにいる。しかし、誘拐犯より、圧倒的多数の善良な地域の人達がいる。この現実を目先の見識の低さで、この世から善良な人を消しているのです。人を信じることができないで、本当に子供達は幸せになるのか。誰も考えない。
 
猜疑心を植え付けるのは、子供達のためでなく、責任を取りたくない教師のため。現実は、そうではないでしょうか。
しかし、教師が悪いとは言えない。事故を自己責任とせず、他者の所為にする風潮になった。それによる正当な自己防衛だとも言えます。教師にも家庭が有り、生活があります。危険を冒しつつ生きられる人間は少ない。止むを得ない現実です。だからこそ、教師を責めるだけでは、問題解決にはなりません。
 
さらに補足すれば、今の子供の教育現場を見てください。先生の言うことを良く聴く子を、良い子供だと評価する。
しかし、本質的に見れば、大人の言うことを従順に聴くことが良いかは、ケースバイケースのはずです。
 
ところが、教育現場では素直な良い子とは、従順な子となっているのです。
この結果どうでしょうか。新型コロナウイルスの流行のなか、問題があると分かっても何も言わない従順な大人が増えた。巡り巡って教育現場が大変な事態にさらされている。実に切ない現実だと感じています。そう思われませんか。
 
 
教育現場が特殊なのではありません。サービス業の現場でも生じています。
 
大型店の店長も、強く指示するとパートタイム職員は辞めてしまうと考えている人が多い。だから直して欲しいと思うところがあっても、クレームがなければ、目を瞑る。ところが、多くのお客さまは、何も言わずに来なくなるのです。
 
またある店員は、「お客さまにお声がけすると帰ってしまう」
だから、私は声をかけないと堂々と言う店員がおられます。
しかし実際は、声のかけ方が間違っているだけです。お声がけして、売上があがる販売員は、世の中に多くいます。
 
今の時代、正しい教育を受けずに店頭にいる販売員や、センスの無い販売員が言う台詞、ご存じですか?
 
それは、「何をお探しですか?」という台詞です。
「何をお探しですか?」で物が売れるなら、誰も苦労しません。
 
 
 
相手との心の距離を縮め、深く他者に関わる事は、生身の人間なら誰しも、非常にエネルギーが必要です。
 
しかし、このエネルギーを補充する術をしらないために、経営者や管理職は、従業員と距離を取るようになった。
 
そして従業員は、お客さまと距離を取るようになってしまった。
 
すべてにおいて、人間関係が希薄なのです。そのため、チームワークを必要とする業務でも士気があがらなくなる。これが原因で、非常に厳しい経営状況になっていく会社があります。
 
この人間関係の心の乖離は、仕事場だけでなく、家庭でも生まれています。
 
 

思いやりがなければ、人間は血縁があっても家族にはなれない。

 
 
この現実を、教えてくれる人が世の中からいなくなったからでしょう。
 
 
 

自分の我欲を通すだけで幸せになれるほど、世俗は簡単ではない。

 
 
 
 

この20年の間、会社だけでなく、社会全体が「本質」がどこにあるのかに重きをおかなくなった。
あなたも、そう思われませんか?
 
そして、人間関係を大事にする意識も希薄になった。自分の人生が満足なら、事足りると錯覚している人達も増えた。そのため、人生における満足感と幸福感の違いも混同されてしまった。
その結果、人に囲まれて生活していても孤独感に苛まれる人が増えているのです。
 
自分の思いを優先することで、一つ屋根の下に住んでいても、いつになっても夫婦になれない人達も増えた。
 
違う生い立ちで、価値観が一緒なわけがない。価値観が異なることが自然。この簡単なことさえ気づかなくなった人が増えてしまった。
 
なぜ、増えてしまったのか。
 
 

満足は、自分の内から生まれる。しかし、幸福が生まれる所は内ではない。

 
これを知らない。たったこれだけのことで、血縁でも家族になれない人が増えたのです。実に切ないことです。
 
他人に真剣に向き合うことは、思った以上にエネルギーが必要です。だからこそ、他者と向き合うことを面倒臭いと感じる人が多くなった。
 
そのため、企業でも店舗デザインや商品改革は率先して行うのに、従業員の意識改革は避けるようになった。これがV字回復ができない原因になっているのです。大手企業ほど、そうではないでしょうか。
 
 
こうした世の状況だからこそ、根が深い問題です。
根が深い問題だからこそ、誰かを責めるだけでは、まったく解決しないのです。
経営者だけが悪いわけでも、従業員が悪いわけでもない。
 
その上で、当事者自身が、今ある問題に気づき、自らの意志で改善しなければ駄目なのです。
問題点を見つけても、外部の人間が変えようとすれば、必ず争いの源をつくる。争って解決するのは、戦争と同じです。これでは解決できても、意味はない。そうではありませんか?
 
誰かを責めるだけでは駄目、だから私は商人道義塾を創ったといっても過言ではありません。
 
 
 
では、もう一歩踏み込んで、実際にある非常に興味深い例を出しましょう。
 
外食、小売、宿泊、病院、職種問わず、閉店倒産する施設があります。
ところが、閉店倒産する施設で働く人達に「お客さまは大事ですか?」と尋ねると、どうなると思いますか。
 
皆様、即答して「お客さまは大事です」とおっしゃるのです。では、なぜ閉店倒産する施設になってしまうのか。
 
粗悪品を扱っている。働いている人の態度が悪い。あるいは経営者が財務経理がずさん。こうした理由で閉店倒産するなら、専門家でなくても、閉店倒産することは当たり前だと、簡単に分かります。
 
ところが、美味しい料理を提供している外食店が閉店倒産する。良品を扱っている小売店が閉店倒産する。
医療事務担当者も何人もいて、医師看護師コメディカル各位は、国家資格を有し、他施設と同じレベルの人達が働く病院でも閉院する。

恐ろしいことに、人口が少ないところにあるから、閉店倒産しているわけではないのです。一歩外にでれば、お客さまになってくださる人は、大勢歩いている。また、大勢住んでいる場所に出店していても閉店倒産している。
 
そしてさらに恐ろしいことは、お客さまのためにと日々働き、閉店倒産しているのです。
これらが、今現実にあるのです。だからこそ、改めて真剣に考えて頂きたいのです。
 
確かに閉店倒産している会社の原因が従業員とは限りません。
 
多くの人は、資金繰りが悪化して倒産すると思っています。そのため、原因は経営者にあると。確かに経営者に責任があることはあります。無謀な投資や、財務経理の管理がずさんで倒産することはあります。
ただし、これだけが閉店倒産の原因なら、分かりやすいのではないでしょうか。
 
問題は、監査法人や、優秀な経理担当者がいて、財務経理がずさんでないにも関わらず、閉店倒産している会社があるということです。
 
そして、資金繰りが悪化する原因は、平時に既にはじまる。資金繰りが悪化する原因を簡単に言うと、「顧客離反という現象」です。この顧客離反という現象の原因となる源を、経営層が平時に気づかない。そして、やっかいなことは、資金繰り悪化時には、既に手をくれになる。
 
では、平時から何に気づいていないと駄目なのか。それを商人道義塾で、あなたには発見して欲しいのです。
 
私が、開店間もない時に視察に行って、お客さまが大勢お越しになっている際に、この店数年の内に無くなると予測できています。同じ観察眼を、是非あなたも手に入れて頂きたい。そう願っています。
 
では、次の実例は、あなたにも身近ではないでしょうか?

大手のチェーン店を見てください。商品も、建物デザインも同じ。人材育成内容も同じ。開店前にマーケティング調査もしています。それにもかかわらず、数年で閉店倒産する施設があるのです。
 
スクラップ&ビルド方式と言えば、対外的な聞こえは良いです。
しかし現実は、社内にV字回復できる人材がいないという証しになっているのです。
 
お気づきになりましたか?
閉店倒産している理由は、商品でも、什器でも、建物でも、教育でもない。さらに隣接する人口の多少でもない。まったく別の理由があるのです。
 
あなたが、この理由に気づけば、商売の本質も見えてきます。善良に経営していると思っている会社や店が資金繰り悪化を招く、根本的な原因。これを見つける力を商人道義塾で養ってください。
 
 

せっかくですから、ここで私人の観点からみたサービスの結論をお話しする前に、別の方向から見てみましょう。
 
一流と言われるホテル内で働く、コンシェルジュがいます。
 
お客さまからの、いかなる要望にも応えようと日々研鑽を積みます。そして、お客さまから、このホテルに宿泊して良かったという言葉を、数え切れないほど頂きます。
しかし、このコンシェルジュの給与は、お客さまからの評価の都度上がるわけではありません。
 
先ほどお話したパートタイム職員の人のように、「自分の給与に反映されないなら、行わない」ということが正論なら、このコンシェルジュの行為は、無駄なことなのでしょうか。
このコンシェルジュは、ただ働きをする奇特な人だけで、終わるのでしょうか。
 
 
 
今度は、違う角度で例を出しましょう。
 
同じ一流と言われるホテルで働いていても、初対面で、すぐにお客さまに名前を覚えて貰えるホテルマンがいれば、「ちょっとすいません」と呼ばれるホテルマンもいます。
 
厳しい現実は、「ちょっとすいません」としか呼ばれない。一生、名前を呼んで貰えず終わるホテルマンもいるのです。
 
この違いは、何が原因か、あなたは明確に答えられますか?
 
この違いを教えられる人が社内にいないから、頭ではサービスは大事、お客さまは大事と分かっていても、体が動かない人が生まれるのです。
 
あなたの会社は、本当に大丈夫ですか?
 
もう一つ、実例をお話しましょう。
 
激高型のクレームを、頻繁に受ける人がいます。
その一方で、お客さまが、いかに立腹していても、その人が目の前に立つと、お客さまの怒りが、すぐ治まるという人がいるのです。
 
悪気なく、相手の怒りを助長させたり、怒りを誘発させたりする人がいます。
その逆に、相手の怒りを癒やす人がいます。
 
Aさんがお客さま対応している際は、お客さまの怒りがまったく治まらない。
ところがBさんに変わった途端、お客さまは怒るのを止める。この現象は、現場にいると目にする人も多いのではないでしょうか。
 
問題は、何が違うのか。あなたは、答えることができますか?
 
今は分からなくても安心してください。商人道義塾哲学編で発見できます。
実践編で取り扱うかは現在検討中ですが、自分でコントロールすることで、相手の感情を変化させるノウハウもあります。
 
 
 
 
さらに実際にある例をお話しましょう。
 
今度は、立ち居振る舞いではなく、考え方の違いの例です。
 
閉店倒産する施設で働く人の多くは、良い物を置けば商売繁盛になると思っているのです。
確かに、粗悪品をおいては、商売繁盛にはなりません。
 
問題は、良い物を置きさえすれば、商売繁盛になるという考え方にあります。
 
繰り返しになりますが、世の中を良く観て頂ければ分かるように、美味しい料理店でも、良品店でも、閉店倒産する施設は多いのです。
 
見方を変えると、日本のように先進国は、不味い料理を出す方が難しいのです。
商売を甘く見てはいけない点は、美味しい料理を出している外食店が、閉店倒産する現実です。

閉店倒産する病院にいる医師も、医師免許を有しています。医療の知識、技術も他施設と劣らない。ところが来院者が増えず、経営が成り立たないということが起きるのです。
 
あなたは、なぜ良品を扱って閉店倒産する施設があるのか。この理由を答えられますか?
 
 
 
それでは、これらの答えをお話しましょう。
 
 

■「お客さまは大事です」と即答できても、お客さまが大事だと分かる行動ができない人達。

■「お客さまは大事です」と分かっているにもかかわらず、閉店倒産する施設の人達。

 

■ 何年経過しても、お客さまから名前を覚えて貰えず、「ちょっとすいません」としか言われない人達。

 

■ 悪気なく、お客さまの怒りを助長する人達。

 

■ 良品を扱っていても、閉店倒産する施設の人達。

 

■ 高度な国家資格を有していても、閉店倒産する病院や弁護士事務所の人達。

 

これらの人達には、共通した認識不足があるのです。

それが、「サービス二元論の私人観点領域をもたずに働いている」ということです。
 
これが原因で、いかに高度な才能を有し、長期間働いても、一流になれないのです。
それどころか、サービス二元論の私人の観点領域を持たずに働いていると、プロとして一人前にもなれない事実があることも発見しています。
 
ところが、学生アルバイトの立場であっても、サービス二元論の私人観点を有して働く人がいます。
この人達は、例外なく将来、優秀な職業人になっていくのです。したがって私から見ると、はじめて勤めるアルバイトの時点で、既に一流の要素を持っているのです。
 
私から見れば、一流と言われる人間は、一流になる前から既に一流なのです。
 
 

一流と言われる人間は、一流になる前から既に一流。

 
 
 
 
 
 

では、なぜサービス二元論の法人観点領域だけでは駄目なのか。

 
 
 
重要な事は、この理由です。
この理由が分かれば、あなたも、なぜ私が哲学編からはじめているのか。この意味が完全に分かってしまいます。
 
そして、哲学編を行う意義が分かったなら、指導論すら学ぶ必要がなくなる。そう言えます。
 
なぜなら教え方は手段であって、目的ではありません。目的さえ分かってしまえば、手段にこだわる必要がなく、自分流でも道を外さないで済みます。この感覚が、指導者には大事です。
 
指導者にとって大事な事は、手段ではなく目的です。したがって、AさんとBさんでは、教え方がまったく違うということがあっても、ごく自然なことなのです。人格や個性を無視し、同じカリキュラムで実施するから、落ちこぼれが出る。そろそろ指導者は、この現実に気づかなければなりません。
 
例えるなら、東京から大阪まで行くのに、高速道路を通ろうが、新幹線を使おうが、飛行機を使おうが、同じところにたどり着ければ良いのです。
 
因みに、私が行う研修プログラムの理想型は、弊社独自開発のProsebu-DAT(プロセブダット)という心理分析を参加者全員が研修前に受験して頂き、その結果で、先ずサービス業適性を7段階のレベルに分けます。さらに同じ心理分析の結果から、男性脳型、女性脳型、左脳型、右脳型と四つの領域に分けます。
 
そして、領域ごとの受講者だけを集め、研修プログラムを実施する。同じ研修内容でも、領域の受講者別に、言い回しや例えをすべて換えて指導する。これが、最も習得効果が高いことも既に分かっています。
 
例えば、左脳型の人に感動話を行っても、それでどのくらい儲かりますかと返答がきて心に響きません。左脳型は論理的且つ、具体的な数字で表して説明すると納得が早くなり、習得もできます。
 
反対に右脳型の人に、論理的且つ、具体的な数字で表して説明すると、すぐ眠くなる。注意散漫で聞き流しが生じる確率が高まります。そこで、右脳型の人には感動話や情緒的な説明が多く必要になるのです。
 
男女脳差で説明を分けるのは、遥かに重要で、尚且つ最も神経が必要になります。

昨今、多くの人達は、まだ理解されていませんが、男女脳差は想像以上に深刻なのです。人事戦略も男女脳差を無視して行っている企業ばかりです。
 
そのため、いかにチャンスを増やしても女性管理職が増えないのです。
恐ろしいことは、男女脳差を無視して女性管理職を盲目的に増やすと、経営上、非常に危険なことが生まれる。多くの人が、まだ気づいていません。
 
私が男女脳差を踏まえて研修中指導すると、研修後、御礼を言いに来られる方、悔しいとおっしゃる方が、何人もおられます。
 
なぜ悔しいのか。それは、もっと私の話を早くに聞いていれば、離婚しないで済んだと悔やむのです。実に切ない時代になりました。
 
その一方で、夫婦仲が良くなったと喜ぶ人が何人もいる。私にとっては、公私共に良くなることは嬉しいことです。
 
これ以上は、長くなるので詳しくは割愛します。
 
 
 

 
 
 

サービス二元論の私人観点領域の本質とは何か。

 
 
 
それでは、一緒にサービス二元論の私人観点領域の本質を見つけに参りましょう。
 
 
冒頭、「サービスとは、なぜ必要なのか」と尋ねて、殆どの人は例外なく、「商売繁盛のため、集客をよくするため」と、利益に関係する答えを言うと話しました。
 
そこで、私たちは受講者各位に質問を換えて尋ねて見たのです。
「あなたは儲けが出て、集客も良い状態なら、サービスを止めますか?」と、率直に尋ねました。
 
この質問に対して、「利益が出て、お客さまにも困らないなら止めます」と、正直におっしゃる人がいます。
あるいは、「サービスを止めれば、必ず売上が下がることは分かっているので止めません」と、ビジネスライクに答える人もいました。
 
 
その一方で、非常に興味深い回答をする人達がおられたのです。
その人達の答えは、「理由は上手く言えませんが、私はサービスを止めない」と、おっしゃるのです。
 
サービスを止めない理由は、上手く説明できないけれど、「何となくサービスを止めると嫌な気がする」と答える人がいるのです。
 
実は、「嫌な気がするから、サービスを止めない」と、回答をする人の中から、将来一流と呼ばれる人が排出されるということも、私共は既に分かっているのです。
 
問題は、利益もあり、集客も困っていないのに、なぜ自分は止めないと思うのか。
「利益とは関係無く、私はサービス行為を止めない」、そう思う感情の源は、どこから生まれるのか。
 
利益も集客も困っていないなら、サービスを止めるという人と、止めないという人、この心根の違いが、年々大きな差となって現れるのです。
 
同じ社員教育を受けても、一流と呼ばれる人になる人もいれば、なれない人もいる。この違いも、職務能力や、才能の差だけではないことが、私共は既に分かっているのです。
 
心根の違いが、考え方の違いを生み。考え方から日々の行動に違いが生まれる。行動が習慣になり、自らの生き方になる。そして、長い年月続けてきた生き方が、一流と、そうではない人達を、決めているだけだったのです。
 
一流と二流の違いは、技術力でも才能でもなかった。本質は、生き方の違いにだけにあるのです。
 
そして、生き方の違いを生む源。これこそが、普段の考え方なのです。
したがって、どう心を「使って」、自らの体を動かしているのかだけ、着目さえすれば、将来の一流は容易に分かります。
 
裏を返せば、心の使い方さえ間違いでなければ、体の動かし方は慣れだけで済むのです。
補足すると、いかに体の動かし方が正しくても、心の使い方が悪ければ、良い結果はでない。
ここが、人体のポイントです。これが、心技体の本当の意味なのです。
 
 
話が脱線しますが、実技は心の動かし方使い方がものいうということが言える例を出しましょう。
 
プロスポーツ選手も、同じ種目を行っているにも関わらず、怪我が少ない人がいます。
怪我する確率も、日頃の心の動かし方が決めている。私は、そう見ているのです。
 
確かに怪我は不慮の事故によるものもあり、本人の責任ではないことも多々あります。
ただし、軽視できないのは、怪我になる確率が変わることがある。そう見ているのです。
 
先ほど、例に挙げた、長嶋茂雄氏、王貞治氏、鈴木一朗氏、共通して怪我が少ないことに気づきませんか?

自分のためにだけ生きる人は、体の力を抜くのが難しい。これは感覚の世界なので、科学的に証明することが今は難しいかも知れません。
 
しかし、経験的に体に力が入っていると怪我になり易い。これは、昔から武芸者や求道者の一流たちは、皆が経験的に知っていることなのです。
 
東洋医学的な発想になりますが、力が抜けた体は、外からの衝撃に強い。なぜなら、力を体外に逃がすことができるからです。力を逃がすルートは、経絡(けいらく)といったり、ヨガではナーディといったりする部分です。これを私に教えてくれた恩師がいますが、感覚の世界は言葉にし難いです。したがって、私なりの根拠では語っていますが、分かりにくい人は無視して進んでください。
 
心の使い方で、未来の居場所が変わる。これらのお話は改めて「二流の壁」という講義の中でもお話します。
 
 
脱線しましたので、本題に戻しましょう。
 
自分の曲は素晴らしいから聴いてくれという人がいます。
一方で、聴衆が喜ぶ曲は何かを悩み、作曲する人がいます。
ヒットを続ける人は、ほとんどの場合が後者なのです。
 
プロスポーツ選手でも、自分の栄冠のためだけに闘う人がいます。
その一方で、自分の活躍は、己の為だけでなく、自分を支えてくれる周りの人達、そして、直接会うことは無いファンのためになっていると自覚して闘う人がいます。
 
生涯成績の良い人の多くは、自分以外の人のためにも闘う、後者の人だと感じています。
 
門外漢の私が言うのは失礼かも知れませんが、プロスポーツ選手には、競技問わず、ファンサービスの必要性や、立ち居振る舞いの元となる考え方を教える専門スタッフが各チームに必要なのではないかと、数年前から感じています。
 
そうすれば、引退後に自分の存在価値を見失い路頭に迷うことも避けられる。セカンドキャリアの準備のためにも、検討するチームが出てくると、プロスポーツ競技の深みが益々でて、子供達のためにもなる気が致します。
 
 
料理人も、腕が良いのに二流で終わってしまう人は、自分の料理は美味しいから客に食べてもらおうと働きます。
 
ところが、一流と呼ばれる料理人は、美味しい料理は「当たり前」だと思っている。そのため、味だけに重きが置かれていないのです。では、何にこだわりがあるのか。
 
それは、自分が美味しいと思う料理よりも、お客さまが喜ぶ料理を出すことにこだわる。これが、心の中で絶えず優先されている。だから食べた人は、もう一度この人の料理を食べたいと思うのです。
 
 
ほとんどの医師は、根治が最重要だと思っています。無論、間違いではありません。
 
しかし、プロローグでも話したように名医と言われる先生は、病気だけを診ているわけではない。そう思われませんか?
 
非常に厳しい現実があります。名医とは、ほとんどの場合、同業者が決めるのではなく、医療のど素人である患者とその家族が決めるのです。
この厳しい現実を、名医と言われる人ほど意識的、無意識的問わず、理解していると感じています。
 
そのため、疾患だけを診ている訳ではない。だからこそ、結果的に患者と、その家族への配慮や、患者への心情の寄り添い方に違いが生まれているのです。
 
聖路加国際病院の院長室で、日野原重明先生の話を伺った際、噂以上の先生だと感動したこと、今も覚えています。【link:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)参照』】
 
日野原重明先生も、患者の心情への寄り添い方が、本当に温かい。体は小さくても偉大な先生だと思ったこと、昨日の様に記憶しています。
 
人間は、業種業態を問わず、心の動かし方と、ターゲットを何に向けているかの違いが、一流と二流を分ける源なのです。
そして、これこそが、商売の成否も分けているのです。
 
この発見こそ、サービスを法人観点、私人観点と、別々に切り離した理由です。
 
利益を上げるために、良いサービス、良い接客は必要です。これは、法人側の観点です。
 
その一方で、同時に必要になるのが、自分の仕事の誇りや、生き甲斐を生むためにも、良いサービス、良い接客は必要だということなのです。
 
分かりやすく言えば、人間は誰しも自分が幸福になるためには、自分と接する人の幸福が同時に必要になる。自分の幸せは、自分の周りにいる人の心の常態で決まるのです。これが、世俗の世の現実です。
 
何度、結婚しても上手く行かないのは、良縁に恵まれていないのではなく、これに気づかないだけなのです。
 
 

人を助けて、我が身助かる。

 
この言葉は、私の祖父の口癖でした。この言葉を科学的証明することは難しくても、真理をついた良い言葉だと、思っています。
 
情けは人のためならず、巡り巡って己の為と同じ意味です。人を助けているようで、実は自分を生(活)かすことに繋がっている。人間関係とは、そういうもの。そう思われませんか?
 
したがって、他人を大事にするとは、同時に自分の人生をも大事にしていることに繋がっているのです。
その証拠に、人を大事にすることが好き、人の世話をすることが好きという人をみてください。不幸そうな顔している人を見ないでしょう。
 
 

人を大事にすることが好き、人の世話をすることが好きという人をみて気づかなければならないことがある。
不幸そうな顔している人間がいないことを!

 
 
 
お客さまは神様という人がいますが、これは、真理ではありません。
 
したがって、お客さまに卑屈になる必要も、媚びすることも必要ない。
闇雲にへつらったり、媚びることを接客とは言わないのです。
 
お客さまは神様ではない。売り手も買い手も、同じ人として対等なのです。どちらが、偉いわけでもないのです。
 
しかし、たった一つだけ忘れてはいけないことがあります。
 
 
「お客さまは、働く人間達の命を繋げてくれる存在」だということです。
 

さらに言えば、お客さまの喜びが、自分の人生の肥やしになる。人間の心の豊かさは、他人からどれだけ感謝されたか、必要とされたかで決まる。これが、きれい事ではない、世俗の法則です。
 
人間関係が元で不幸になる人は、運が悪いのではなく。この世俗の法則を知らないで生きているだけなのです。
この世俗の法則にさえ気づけば、その瞬間から、みな人生の軌道は変わっています。
 
自分の人生を豊かにするために、自分の存在をこの世で確固としたものにするために、お客さまに誠心誠意尽くす。これが、私人の観点からみたサービスと接客なのです。
 
ただし、打算が先に立つと人の心に響かない。これもまた厳しい現実です。だからこそ、誠心誠意が大事なのです。
 
そして、「してやる」という恩着せがましい心ではなく、「させていただく」という謙虚さが、他者の心に入りやすくなる秘訣です。
 
サービス二元論でいう、法人観点のサービスと、私人観点からみたサービス、これらが一体となって、はじめて、評判の良い施設や店になり、長く生き残る繁盛店になっているのです。
 
これは、外食業、小売業、宿泊業といったサービス業を代表する業種だけでなく、医療や、士業の分野でも同じです。
 
「人間の世界で上手く生きる」とは、自分以外の人間を、絶えず生(活)かすことだと。そう思ったときに、人は道を外さなくなるのです。
 
そして今まで、私しか言わないと、様々な方々から言われることがあります。
それは、私はしばしば会話中に、心根という言葉を使います。
 
なぜ、心ではなく、心根というのか。よく尋ねられます。
あなたも、同じ疑問をもたれましたか。
 
それでは、心根の違いが、最も怖くでる現象を、お話しましょう。
 
私が、しばしば心根と言う言葉を使うのは、理由があります。それは、自我の領域で理解していることと、真我の領域で理解していることを分けているからです。
 
心根とは、真我を言っています。真我とは、現代的な言葉で言えば、潜在意識です。
行動を司るのは、潜在意識の領域の方が強い。行動習慣は、潜在意識の領域にあるからです。
 
私の場合は、心は自我を表し、心根は真我を表しています。自我で理解していても、真我が納得しないと行動が変わらない。
これが、タバコを害と知っていても止められない人がいる理由なのです。
 
会社の規定も、自我だけに合わせていては、悪習はもはや変わらない。そういう時代なのです。
 
心根を無視してはいけないことを、私は、様々な事例や、人の見識から裏付けをとっています。
 
またその上で、私の生来の感覚が誤りで無いことを自覚しているため、心根という言葉をしばしば使うのです。
しかし、真我については筆舌に尽くしがたいところが多すぎて、上手く説明ができません。

また、恐ろしいのは言語にしようとすればするほど、本意からずれる。この怖さを知る私としては、日々どこまで言語にすべきか悩むところです。
 
神仏の教えをみて分かるように、宇宙に真理があるなら、それは、人間の言語に合わせては創られてはいないはず。これは、本来誰でも容易に分かるはずなのです。
 
それにもかかわらず、言語や偶像にしようとすれば、あてはまらない部分が必ずでる。これが、悪気無く真理からずれる原因となるのです。これこそが始祖亡き後、始祖の志から離れ、まったく別物の教えに進化する原因なのです。
 
新型コロナ禍で分かったように、平時でしか神仏を語れない人の方が多い。疫病が蔓延した途端、神域といわれる場所が、この世から消えるのです。本当に消えているのかは、誰も訊かない。
 
天網恢々疎にして漏らさずという本意を悟れないと、結局は肉眼で見えたもので無ければ理解ができないのと同じ。それで真理に近づけるのか。実に切ない現実だと思って眺めています。
 
神仏の教えの世界ですら、始祖亡き後、別物になることがあるのです。一般企業の創業理念が、社長が替わる度に解釈が変わるというのは、決しておかしな話ではないのです。
 
だからこそ、可視化できない領域を含む理念を、言葉が通じれば、意味までも通じると、高をくくり甘く見ていては駄目なのです。
 
日本国内でも、創業者が陣頭指揮をとっている間は発展するが、おられなくなった後は、大変になるだろうと予測している会社は、何社もあります。
 
中興の祖を生む土壌を組織内にもつ風土は、言語や形を伝えるだけでは駄目だという意識を、常に持っていなければなりません。時代と共に解釈が変わるような理念は、理念では無く理想なのだと先達が教えて行かなければなりません。
 
普遍的な哲理まで昇華させた理念にするための教育を、社内で今準備できない会社は、淘汰されていくでしょう。
 
サービス業の宿命は、人間が営む組織の力学と同じです。
 
始祖の教えを時代の所為にして解釈を変えて、別物にしてしまう人達がいるように、創業者の理念を、時代の所為にして解釈を変える人達が出る。これが、没落に向かう始まりなのです。
大企業だったのに、数十年で消えたサービス業企業をみて、あなたも気づきませんか?
 
没落に向かわせる人間には、属する組織や、生きる時代に関係無く共通して言う台詞があるのです。
それが、「きれい事だけでは、生きられない」や、「理想だけでは、生きられない。現実は厳しいのだ」という台詞です。あなたも聞いたことがありませんか?
 
 

人間は、誰しも未熟なまま死に至る。

 
 
高い人格を有していても完成されて死ぬわけではありません。だからこそ、絶えずきれい事を心に有していこうと強く思わないと、未熟故に簡単に正道を外す。それが、人間という存在です。
 
ここを分かった人間を経営層にしないから、創業理念が消え、閉店倒産していくのです。
 
先ほど、小倉昌男翁を例にさせて頂いたので、ここでも運送会社を例にします。没落に向かわせる人間には、共通する分岐点があります。
 
例えば、国土交通省の調べでは平成元年から約30年の間に宅配便取り扱い個数は約四倍になっています。
しかし、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」によると、平成23年~28年を見ても、年収は横ばいで、全産業平均と比較して、大型トラック運転者で約1割低く、中小型トラック運転者で約2割低いと言われています。また年間労働時間は、全産業平均と比較して、大型トラック運転者で約1.22倍、中小型トラック運転者で約1.16倍との状況です。
 
 
このような状況になると、物流は増える、労働環境は悪化傾向にある。サービスは大事だと分かっていても、現実的に無理だと簡単に言えるようになる。これが、先ほど言った「理想だけでは生きられない。現実は厳しいのだ」という台詞の現実味なのです。
 
問題は、「理想だけでは生きられない。現実は厳しいのだ」という台詞が、どの職制レベルからの声になるかで、企業の命運が決まります。
職制レベルが低いところから出た台詞なら、愚痴のレベルで済みます。
 
しかし、管理職層から出てくると、必ず不祥事を生む。
 
経営者から出てくると、没落へ向かいます。
 
 
例えば、物量が多くて人手不足だから、仕方ないという心理を優先してしまうと、冷蔵冷凍で運ぶ必要の有る品が常温保管されていても、誰も疑問に思わない。これが、不祥事の源なのです。
 
ここで、改めてよく見て頂きたいのは、不祥事の原因は、悪人だけから生じると言えない現実なのです。
 
この現象は、運送会社に限ったことではありません。
例えば、郵便や、通信、銀行といった大組織で且つ、公共性の高いビジネスを営む会社の場合は昨今、企業理念が、創業理念とは違うケースが増えています。
 
そのため、会議室やエントランスには理念を掲げていても、社員の全行動に組み込んでいるようには見えないケースが増えているのです。怖いのは、理念は表向きだけ、本心は違うという組織心理です。
非常に怖いことです。そう感じませんか?
 
 
 

企業理念は、社員のプライドに組み込まれて、はじめて行動に反映される。

 
 
 
企業理念は、社員のプライドに組み込まれて、はじめて行動に反映されるものです。
したがって、各企業の企業理念を教材として使用しながら、社員各位に対して職業プライドを、いつ養ってもらうのか。これを人事戦略上に組み入れていないと、簡単に不祥事の原因を作る時代になっているのです。不祥事の都度、引責辞任しているようでは、経営層にとってリスクが高すぎる。この点を、そろそろ本気で自覚する時代です。
 
あなたも、そう思いませんか?
 
 

 
あなたに理解するポイントを外して頂きたくないので、改めて申し上げます。
商人道義塾哲学編で語る内容はすべて「理想」を語っている訳ではありません。「理念」を貫く礎を鍛えるために、語っています。
 
即ち、想ではなく、念です。この違いを踏み間違えては話になりません。
想と念では、心の動かし方が違うからです。
 
人間は想っているだけでは駄目なのです。念じるからこそ、わずかでも変化が始まるのです。そして、環境に変化を及ぼす。人類文明は、すべて人の心からはじまりますが、妄想からではなく願望が形になったものです。一見同じように見えても、「心の使い方で結果が変わる」と私が言う理由は、ここにあります。
※(商人道義塾では、心遣いと心の使い方を分けて捉えています。御注意ください)
 
 
夢が夢で終わる人は、想だけで終わるのですが、夢を叶える人は、意念(イネン)を使って引き寄せているのです。
 
この現象の子細は、筆舌に尽くしがたいため、軽々に語れませんが感得した上で、私はセミナーや講義を行っているのです。セミナーや講義では、心の使い方を説明するために独自の心形の図を使うことがあります。
 
 
 
そして、ハッキリと言いましょう。
 
 

妥協癖のある人間に、一流と言われる者はいない。

 
 
「理想だけでは生きられない。現実は厳しいのだ」と、現実論を雄弁に語る人間ほど、良く見れば、妥協が早いだけ。妥協癖のある人間に、一流と言われる者はいません。商人やビジネスマンだけでなく、求道者、スポーツマン、音楽家、技術者、職人、士業、全ての業種問わずであります。
 
 
 
 

諦めることに、才能はいらない。

 
 
 
もし、あなたが自分は二流で終わっても良いと思うなら、商人道義塾は不必要な塾となります。
もし、あなたが一流になりたいと思うなら、一流の人達が共通して持っている考え方、生き方を知れば良いのです。
 
そして、超一流と言われる人間だけが有するマスターマインドを、知るだけでも、一流になれる確率は急激に高まります。
 
 
 
いつの世も組織変革は、外圧ではなく、内部からが必要です。
しかし、外圧で変化することの方が多いのも事実。ただし外圧による変化は、必ず犠牲を要すると覚悟しなければならない。
 
 
組織の問題点に気づき、良く変えようとしても、外部の人間が行うのでは駄目なのです。当事者自身が変えようとしなければ、必ず争いの元を作る。
 
社会も、そうではないでしょうか。「差別を無くせ」と、マイノリティから発信しても、なかなか現実は変わりにくい。
しかし、マジョリティから発信されてくると、世の中は良く変わりはじめる。この現象こそ、恒久平和に必要なことなのです。
 
人類の歴史を見ても、マイノリティが世を変えようとすると必ず武器が必要になる。殺し合いを避けるためには、マジョリティの中に、絶えず徳者や賢者が必要になる。違うでしょうか?
 
だからこそ、絶えず内部から変革できるように平素から準備する。企業も自浄能力を有する組織を継承する目的の幹部育成プログラムを用意していかなければならないのです。
無論、幹部育成プログラムを作る際は、外部の人の智恵も必要になるでしょう。
しかし、あくまで変革実行は、当事者ということです。この点を分かった上で、けっして自分の手柄にはせず、内部の人に花を持たせることのできる外部人を招聘すべきなのです。
 
 
 
少し難しい話をしてしまいましたので疲れたでしょう。
 
 
話を現実的なものに戻します。
 
サービス二元論の法人観点領域だけで失敗している実例を説明しましょう。
 
法人観点のサービスしか従業員に教えない会社、お店によく見られる典型的な現象を挙げます。
 
これらの現象から、あなた自身も、身の回りのお店で実際ある状況を見て、気付くことが大事です。
 
 

例1
お客さまが大事と分かっていて、お客さまに一度も目も合わさないレジ係がいる店。

 
 
【 解説 】
 
この店の人達の心根には、お客さまの存在自体よりも、クレームが出ないことが優先されていることが多いのです。
そのため、お客を待たさないようスキャンを速くし、即座に釣り銭を渡さねばならず、お客さまを見る余裕がない。
ここで重要なポイントは、レジ係には悪気がないということです。
なぜ悪気が生じないのか。それは、忙しいし余裕が無い。研修でも習っていない。他の人達も同じことをしている。だから私もできなくても、止むを得ない。みな一緒だから許されるとレジ係は思っているのです。
 
新人教育担当者も、商品数が多い中でのレジ作業のため、接客意識よりレジ操作の方に重点がおかれているのです。そして、最も厄介な新人教育担当者の心根は、お客さまからクレームがなければ上手く行っていると錯覚することです。
 
評判が上がらない店や、集客数に困る店の典型例は、顧客の心理より、店舗オペレーションが上手くいく方が重視されている。この点を、あなたも観察してみてください。
 
では、私人の観点からみたサービス意識をせずに、店舗オペレーションだけに重視した結果、今何が問題になっているでしょうか。
 
恐らく、多くのGMSや多店舗経営のスーパーマーケットが意識していないと思われる問題が有ります。
 
有人のレジを置き、数少ないお客さまとのコンタクト時間を、せっかくとっているのにもかかわらず、お客さまには「この店は、親切だ」という記憶が残らないで終わらせているのです。したがって、評判を上げるチャンスを逃し続けているのです。
 
そして同時に、店員は作業に追われるだけ、心労を取る場面に出会さない。これが、経営層、店長、新人教育担当者が見過ごしている危険な事なのです。
 
人間は、誰しも人と接するとエネルギーを消費します。
ところが、消費続ける人と、途中でエネルギーを補充できる人に分かれているのです。
 
店員各位を作業だけに追わせてしまうと、エネルギー消費するだけで業務を終わらせてしまうのです。これが、人疲れを、助長させます。
 
人疲れを放置すると、士気がさがるだけでなく、店員の雰囲気は陰の雰囲気に変わる。この陰の雰囲気こそ、悪気無く、集客力を下げる。これが悪気無く閉店倒産へ向かわせる大きな原因なのです。
 
 
ところが、仕事中にエネルギーを補充できている人を観察してみてください。簡単に分かることがあります。
 
それは、お客さまからの「ありがとう」、「あなたがいて良かった」、「あなたに会えて良かった」。このような意味の言葉を、何度も浴びているのです。

人間は、他人から喜ばれたり、感謝されたりする瞬間、得も言われない癒やしがある生き物です。
これが、一流と言われるコンシェルジュやサービス業従事者が、いつも活き活きしていて、疲れを知らないといわれる秘訣なのです。
 
これは、きれい事ではありません。既に科学的に証明されています。人間は他者に親切にした後、その反応が良い形で戻ってくると、ストレスを消し多幸感を与えてくれるオキシトシンというホルモンが分泌されるのです。
 
ところが、このオキシトシンがでる瞬間が、業務中に奪われていると、何時間働いても、何ヶ月勤務していても、店員はサービス業で働く冥利を得られず、働くことになるのです
サービス業従事者としての冥利を奪う仕組みこそ、薄情な経営者がいるサービス業の典型例です。
 
人を巻き込む力が強かったカリスマ創業者がいなくなった後、二代目、三代目の社長は、合理的に経営したいと考える会社は多いです。確かに、ビジネス的思考としては、決して悪いとは言えません。
 
ところが商売の感覚では、これこそが社員の士気低下を生み、栄枯盛衰の波に呑まれやすくなる原因を生むのです。

この社員の士気低下の原因に気づきつつ、合理的に経営判断を行う。これが、サービス業の発展には欠かせないことだと常々話しております。
 
あなたは、今何を感じておられますか?
 
 
では、今度は直接お客さまと接しない仕事ではどうでしょうか。
実例を出しましょう。
 
 

例2
ホテルにとって、宿泊者がチェックアウト後、次のお客さまのために、部屋を掃除することは、最も大事だと分かっています。

 
 
したがって、ハウスキーピングを軽視する宿泊施設というのはないでしょう。
 
しかし実際の現場では、何時まで終わらせなければいけないというルールがあります。このため、絵画の裏、テレビ棚の後ろ、ベッドの下や備品類の裏は見ないハウスキーパーがいるのです。また、それを時間が無いという理由で、許すホテルも増えています。
 
 
【 解説 】
 
この例のようなホテルのハウスキーパーの心には、マニュアル通り清掃すれば、業務チェックも通る。クレームさえ出なければ、上手く行っていると錯覚も生まれます。
 
ところが、ハウスキーピングには、きれいにするだけではない大事な意味があるのです。これを知らずに過ごしていると、閉店倒産に向かいます。
 
客室清掃は、単に部屋の掃除をすることではないのです。
しかし、この重要さを教えていないホテルの方が多いと感じています。
 
空間の雰囲気を整えるコツは、通常利用では、けっして目にふれないところを、あえて清掃することなのです。
 
実はこれ、一流と言われるハウスキーパーなら皆が経験的に知っていることです。客室掃除は、きれいにすることだけではなく、「空間を清める」ことなのです。
 
前のお客さまのゴミや汚れ、臭い等だけ掃除するのでなく、気配を消すことが目的にあります。
 
 
この感覚を例えましょう。
 
あなたが、何百年もの年月が経った、寺社仏閣に行ったことがあれば、思い出してください。建物や庭が、古くさいとは感じず、心が澄んだ気持ちになったときがありませんか。
 
この感覚に客室を近づけることをハウスキーピングというのです。これは、優秀なハウスキーパーでないと有していない感覚の一つです。
 
客室を掃除することは、手段であって目的ではありません。目的は客室の場を清め、お客さまが部屋に入った瞬間、はぁ~と息ができるような空間に仕上げること。これが、ハウスキーピングの目的です。
 
 
 
 


サービス二元論のまとめ

 
法人観点のサービスは、分かりやすく言えば利益のためです。
利益を上げるための手段が法人が行うサービスです。
 
そして、法人観点のサービスの目的は、自社自店のブランドを確固たる物とするために、お客さまの記憶に残ることを行う。お客さまに喜ばれた結果、この世に居て良い組織となり、発展する場が生まれるのです。
 
 
私人の観点からみたサービスの目的は、人に尽くす事で己を活かすこと。己が活かされたという実感が、自分の尊厳や存在意義を高める。この感覚を得た時、職業人としての幸福も生まれてくるのです。
 
そして、重要なのは、職業人としての幸福を得た人は、家庭人としても幸福になる確率が高いということです。
これが分かっているからこそ、全従業員の物心両面の幸福実現という言葉に、深い意味が出て来るのです。
小嶋千鶴子刀自という御仁を私が好きなのは、私が知る限りサービス業界の中で、最もこの点が分かっているからです。
(小嶋千鶴子刀自に関してはプロローグをご覧ください)
 
 
お客さまのために尽力して、給与が仮に上がらなくても、この世に、ただ働きなどない。お金で得られないものが手に入る。それが、サービス業の冥利です。無論、だからと言って、労働搾取を勧めるのではありません。
 
この証拠に、私のセミナーを受けた後、子供に辛くあたらなくなった、夫婦の関係が良好になったという人が何人も出るのです。
 
サービス業は、人間を主体とする職業です。
だからこそ、人間を深く知る必要があるのです。
 
人間にはモチベーションや活力を維持するために、本能的に避けて通れない現実がある。
これを無視して店舗運営しているから、様々な問題がおきるのです。
 
 
繁盛店にするためには、法人観点だけのサービスでは足らず、私人観点のサービスの同時提供が必要であること。先ずは、これに気づくことが大事です。
 
気づいてしまえば、教育の仕方も、サービスの提供の仕方も良く変わります。


それでは、せっかく商人道義塾の講義をお受けになっているのですから、なかなか聞く機会のない話で終わりにしましょう。
 
商人道義塾が哲学編からはじめるのは、単純な精神論ではないと、既に気づいたかも知れません。
そして、心とは言わず、心根という意味も御理解されたかも知れません。
 
そこで、なぜ心の使い方が大事か。この理由をお話ししましょう。
 
人間が実技を学ぶとき、必ず上手な人達の動きを真似ることからはじめます。
しかし、一流の野球選手と同じ体の動きが真似られたとしても、ホームランも打てなければ、変化球で三振もとれない。なぜか。それは、体を動かしている心の状態が違うからです。
 
この意味を達人といわれる先達は、みな知っているからこそ、実技では、姿形よりも精神状態が重要と言われるのです。
 
しかし、これは言葉で言うほど簡単ではありません。
 
例えば、瞑想と禅は、行っている様子を見ても肉眼では区別がつきません。
しかし、体の中での心の巡りが違うのです。ところが、それを分かる人がいなくなった。
 
呼吸で脳波を安定させ、心を無にしたところで、本来の目的にはまったく近づかない。残念なことに分からなくなってしまっているのです。時代の流れで止むを得ないのか、切ないのか。複雑な気持ちで眺めることがあります。
 
外からでは、体内の心の使い方は見えません。だからこそ、実技にとっては心の使い方が重要なのです。
 
商人道義塾が哲学編を大事にしている理由も、この点にあります。
 
 
せっかく商人道義塾の講義を受けているのですから、武道がなぜ精神論が大事か。少し余談を話しましょう。
 
あなたはテレビ等で、見たことはないでしょうか。
 
名刺で割り箸を割ることができる。通常なら紙で、紙より硬い木を割ることなど無理だと思っている。でも割れるのです。
 
しかし、割れる人と、割れない人に分かれます。ただ闇雲に名刺をたたきつけても、割り箸の方が硬いため名刺が折れてしまう。
 
ところが割れる人は、名刺をたたきつける前に、名刺で割れた割り箸を鮮明にイメージします。それから刃物で割り箸をきるように、名刺を割り箸にあてるのです。そうすると、名刺で割り箸がスパッと割れる。
 
この原理は、心の力を借りることなのですが、厳密には心が動き、氣が動いているのです。
太刀筋という言葉が昔からあるのは、このことを知っている人達の言葉です。
 
この感覚を知っているため、私は「心の使い方」という言い方を、あえてしているのです。「心遣い」とは、まったく違いますので、注意してください。
 
 
実際の真剣で、素人が刀を振り回してもなかなか切れないのですが、太刀筋が分かる人は、スパッと切れる。
 
私は、破壊の心根は商売にとって逆効果だと知っているため、名刺で割り箸を割るようなことは見せません。また、推奨もしません。
 
ただ、この本質的な原理を知っているため、「心の力を借りて、あなたは商売をしていますか」と尋ねることは頻繁にあります。
 
実践編がはじまっていませんので、この段階では、まだ早いかも知れません。
あなたが、オカルト的だと感じたら聞き流して構いませんが、オカルトではありません。
 
もし次に言うことを疑ったなら、是非、実験してみてください。
 
 
 
 
 
 

「心の力を借りて商売する」とは、何か。

 
 
 
「心の力を借りて商売する」とは何か。あなたは、ご存じですか?
 
実際ある例を出しましょう。
 
陳列棚に、段ボールから商品を出して並べる仕事を想像してください。
 

Aさんは、何も考えずにきれいに並べるだけを意識して丁寧に陳列します。

 
 

Bさんは、商品を陳列する度に、売れますように売れますようにと念じながら陳列します。

 
 
さぁ、AさんとBさんでは、どちらが売れ行きが良いか。分かりますか?
 
 
答えは、Bさんなのです。
 
 
これは、店頭販売で成功した経験のある人なら、感覚的に分かることです。
叩き上げの担当者でないと、今ここで私の言っていることは、何のことかまったく判らないということ、しばしばあります。
 
 
さぁ、本当の問題はここからです。
 
 
この話を聴き、Bさんのように、Aさんも売れますようにと「念じながら陳列」しました。
 
ところが、売れない。
 なぜでしょうか。
 

実は、念じながら陳列しても効果が出ない人が実際には居ます。
そういう人は、私が嘘を言っていると怒るのです。
 
ところが、人間には筋肉にも力の差があるように、心にも力の差があるのです。
 
ほとんどの人は、初耳でしょう。
しかし、心って力があるのです・・・。
 
この心の力の差を生む原因こそ、心根の質の違いなのです。
 
心と言っても、実は想念と意念(イネン)二つの働きがある。
Bさんは、意念(イネン)を使い。Aさんは、想念を使って念じているのです。
したがって、Bさんは売れても、Aさんは売れない。そこまで、私は見分けがついているのです。
 
その上で、心根が整えば整うほど、身体全体から、かもし出される雰囲気というエネルギーの質も変わることも分かっています。
 
自らの体から発散するエネルギーが、商売向きになった瞬間、いらっしゃいませなど一切言わずとも、黙って店頭に立っているだけで、人は集まってくるのです。
 
これが、真の集客力です。商品力ではなく、人間力で人を寄せるのです。
 
 
念が通じる人と、まったく通じない人が、この世には居る。
そして、人を寄せるエネルギーを出す人、人をはね除けるエネルギーを出す人も居る。
これらの原因を分かった上で、私は指導できるのです。だからこそ、何一つ気休めはないのです。
 
 
したがって、哲学編の後半を、是非きれい事だと軽視せず、真剣に受講してください。
 
私を嘘つきだと怒る人には一生手に入らない能力でも、私を信じ検証を繰り返せば、誰でも心の力を強くすることは可能です。
 
無論、一年ぐらいでは強くなりませんが・・・。
 
 
商人道義塾のプロローグはじめ、各講義の内容で心根に深く響いたものが、あなたの人生を変えていきます。そして、人生の軌道が良くかわります。
 
この結果、何も言わずに店頭に立っているだけで集客できる原因を感覚として分かるようになります。さらに、この感覚を、あなたが人に教える事ができるようになれば、店が良くなるだけでは済まなくなるのです。
 
例えば・・・、
 
あなたのお子さんは、どこに行っても、いじめられることもなくなる。
(人をいじめる人を、この世から無くすことは難しいですが、いじめられる人を無くすことは可能になるのです)
 
あなたの同僚や部下は、誰と結婚しても、どの職場でも上手く行くようになってしまう。
 
なぜなら、人間関係の良し悪しの源は、自分から発散するエネルギーの質が決めているからです。
 
これを感覚として分かり、社内外の人に教える事のできる塾生が、私が生存している間に何人出るか。今は分かりません。
 
私は、このまま無名のまま逝くかも知れません。それも、また人生だと思っています。
 
 
一人でも多くの人が、サービス業の冥利から、人間という生き物について深く学べば、この殺伐とした世の状況をも変えることができるでしょう。
 
そして、サービス業の冥利を得た人が経営者になったなら、世の中にとって必ず良いことになると思います。
 
 

それでは、講義を終わります。
 
 
 
哲学編の後半を楽しみにしていてください。
 
 
 
 

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